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006 夢と現実

last update Huling Na-update: 2025-11-25 11:00:45

「それで、その……聞きたいことがあるんですけど」

 恋〈レン〉の真剣な眼差しに、蓮司〈れんじ〉が静かにうなずく。

「うん……なんでも聞いて」

「あの、蓮司さん……工場で働いてるってことですけど、その……小説の方は……」

「……だよね」

 笑顔のまま、蓮司が麦茶を口にする。

「やっぱりまだ、デビュー出来てないんでしょうか」

 勇気を振り絞り、恋がその言葉を口にした。

 * * *

 蓮〈れん〉は子供の頃から、本を読むのが好きだった。

 低学年の頃は童話や偉人の本、高学年になると歴史物を夢中になって読んでいた。

 中学に入ると図書館に通い詰めるようになり、純文学から大衆文学まで、幅広く読むようになっていた。

 そんな中、彼の中でひとつの夢が芽生えていった。

 自分にこれほど感動を与えてくれる文学。与えられる側でなく、自分も創り出す側になりたい。そんな思いが日に日に強くなっていった。

 それから蓮は手帳を持ち歩くようになり、ひらめいたこと、面白いと感じたことを書き残すようになっていった。

 いつか自分で物語を書くんだ。

 目を輝かせて夢を語る蓮に、恋はときめいたのだった。

 高校に進学すると、蓮は本格的に執筆活動を始めた。

 これまで集めたたくさんの言葉、たくさんの思いをまとめ上げ、二年の内に数本の小説を完成させた。

 完成するたびに、蓮は嬉しそうに恋に報告した。蓮の初めての読者は、いつも恋だった。

 ――口下手な蓮くんが、小説だとこんなに自分の思いを表現出来るんだ。

 もっと知りたい、もっと蓮くんの世界を感じたい。

 蓮の作品に魅了された恋は、彼の創作活動を応援した。

 そしてそんな励ましに、蓮の中でいつしか「作家になりたい」といった夢が生まれていったのだった。

 * * *

「デビュー、ね……」

 蓮司が囁くようにそう言い、小さく笑った。

「蓮くんも、その……毎日頑張ってます。今書いている作品も、新人賞に出すんだって張り切ってて」

「頑張ってるんだね、10年前の僕も」

「はい。でも……10年経ってもまだ、夢は叶えられていないんでしょうか。それで蓮司さんは、働きながら書いてるのかなって」

「もう諦めたんだ」

「え……」

 突き放されたような気がした。

 蓮司との距離が、急に遠くなったように感じる。

 蓮司に対して、怖さすら感じる。

 彼の放った言葉は、恋にとってそれぐらい衝撃的なものだった。

「諦めたって……どういうことですか」

「言葉通りだよ。作家になるって夢、もう捨てたんだ」

「どうして」

「今の恋ちゃんには受け止められないかもしれない。まだまだ夢を追ってる年齢だからね。未来は明るいに違いない、頑張ればきっと結果が出る、そう信じてると思う。

 でもね、大人になるってことは、それがただの夢なんだって認めることでもあるんだ。いつまでも夢に溺れて、現実を見ないで生きていく……そんなことを続けていても、何も得られないんだ。

 夢はあくまでも夢だと自覚して、捨てる勇気も必要なんだ。何より僕は社会人だし、自分の食い扶持は自分で稼がないといけない。

 恋ちゃんが言ったように、働きながら創作している人もいるだろう。でもね、それは大変な情熱と労力を必要とするんだ。仕事をしながら続けるなんてこと、並大抵の覚悟で出来るものじゃない。僕はね、恋ちゃん。自分の限界を知ったんだ。自分には才能がない。続けていくだけの情熱も持っていない。だから諦めたんだ」

 蓮司の言葉。

 その一つ一つが恋の胸に突き刺さっていった。

 ――心が痛い。壊れそうだ。

 私の前で夢を語っていた蓮くん。

 あんなに輝いた瞳、見たことがなかった。

 夢を語っている蓮くんは、本当に幸せそうだった。

 その横顔にときめいた。蓮くんのことが好きなんだ、そう思い知らされた。

 その蓮くんが今、無残に砕け散った夢を淡々と語っている。

 優しい笑顔で。

 でも、その笑顔が痛々しかった。辛かった。

 いつの間にか恋の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちていた。

 その涙に気付くと、一気に感情が溢れてきた。

 ひっく、ひっくと肩が揺れる。

 蓮司がタオルを差し出し、「ありがとう、恋ちゃん」そう優しく囁く。

 その言葉に、恋の感情は暴発した。

「やだよ……なんで、どうして……」

 タオルに顔を押し付け、肩を震わせる。

 哀しみが止まらなかった。

 蓮司さんはきっと、いっぱい悩んだのだろう。

 いっぱい泣いたんだろう。

 夢に破れる人がほとんど。そんなこと、高校生の私にだって分かってる。

 でも、それでも……蓮くんには叶えてほしかった。

 蓮くんの唯一と言っていい、自分が自分でいられる世界。それが創作の世界だった。

 その世界と決別する為に、どれだけの涙を流したことだろう。

 どれだけ悩み、どれだけ苦しんだことだろう。

 そしてきっと、今も辛いはずだ。

 だって蓮司さん。もう覚えてないかも知れないけど、あなたは私にこう言ったんですよ。

 夢っていうのは、ある意味呪いみたいなものなんだって。

 叶うまでずっと、僕はその呪いから逃れられないんだって。

 だったら今、あなたの心はどうなってるんですか?

 夢に破れた人間として、敗北感と罪悪感を背負ってるんじゃないんですか?

 なのに、なのに……

 あなたは今、私を慰めてくれている。

 穏やかに微笑みながら……

 やるせない気持ち。哀しみの感情が恋の心を支配する。

 恋は何度も蓮司に、「ごめんなさい、ごめんなさい」そう言った。

 * * *

「……失礼しました、取り乱しまして」

 落ち着きを取り戻した恋が、涙を拭きながら頭を下げた。

「僕こそごめんね。ここまで泣かれるとは思ってなかったけど、でも……嬉しかったよ。ありがとう」

 そう言って笑顔を向ける蓮司に、恋はまた赤面して視線をそらした。

「それでその……蓮司さんの今の状況は理解しました。蓮司さんは今、工場で頑張ってるんですね」

「まあ、頑張ってるのは間違いないけど。でもほら、僕って不器用だろ? 中々うまくいかなくってね、苦労してるよ」

 ははっと笑う蓮司の笑顔は爽やかだった。

「蓮司さん、実家を出られたんですね」

「うん。三年くらい前になるかな。親父が死んでしばらくして」

「えっ! おじさん、亡くなられたんですか!」

「ああ、うん……ほら、恋ちゃんも知ってるだろ? 親父、いつも調子が悪いって言ってて」

「そう、ですね……休みの日はいつも、家でゆっくりされてます」

「ちょうどいい。僕からも一つ質問、いいかな」

「はい、何でしょう」

「恋ちゃんはどの頃の恋ちゃんなのかな。10年前ってのは分かってるんだけど」

「あ、はい、蓮くんと付き合い出したばかりです」

 厳密に言えば付き合って半年、しかも今日、初めてキスしたんです。本当ならそこまで言うべきなのかもしれないが、恥ずかしくて言えなかった。

「そっか。僕が一世一代の告白をした、その頃の恋ちゃんなんだね」

「はい……やだもう。蓮司さん、真顔でそんなこと、言わないでください」

 恋が両手で顔を隠すと、蓮司は「ごめんごめん」と笑った。

「その頃ならもうすぐだね。親父はもう少ししたら検査をする。結果は胃がん、ステージ4だった」

「……」

「抗がん剤治療を受けながら頑張っていたんだけど、それから4年ほどで亡くなったんだ」

「そう……なんですね」

「まあ、ステージ4なら5年生存率が10パーセントもないらしいからね。そういう意味ではよく頑張ったと思うよ。

 その後しばらく母さんと二人で暮らしていたんだけど、半年ぐらいして兄貴が戻って来てね、奥さんと一緒に住んでくれることになったんだ」

「智兄〈ともにい〉、結婚されたんですか」

「うん。奥さんもいい人でね、母さんと一緒に住みたいって言ってくれたんだ。で、それを機に僕は独立、会社に近いこのアパートに引っ越したんだ」

「そうだったんですね……ほんと、色々あったんですね」

「10年だからね」

「それで蓮司さんは、ここで生活しながらお金を貯めてるんですね」

 恋が照れくさそうに言った。

「私との結婚資金を貯める為に今、頑張ってくれてる」

 その言葉に、蓮司はまた穏やかな笑顔を向けた。

「恋ちゃん、ごめんね」

「何がですか?」

「僕はね、いや、僕たちはね、恋ちゃん……もう付き合ってないんだ」

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